【名場面0027】「……ギターくらい弾ける、なんてまだ言えるの?」 [さよならピアノソナタ]
「……ぼくだってギターくらい弾けるよ?」
不意に漏れ出た言葉は、でまかせではなかった。
ぼくもロックを色々聴いてきた男として、ギターに手を出したことがある。中二の夏のことだ。家の物置で埃をかぶっていたガットギターを引っ張り出して、『天国への階段』のイントロを必死になって練習した。
今は、もう――触ってもいないけれど。
真冬の目は冷たく、細くなる。どうせでまかせでしょ? とでも言いたげに。
ぼくがさらになにか言おうとしたとき、真冬は机に立てかけてあったギターを取りあげてアンプにつなぐと、ヘッドフォンを手にいきなりぼくのそばまで寄ってきて、強引に頭にかぶせた。
「な……」
「動かないで」
彼女の二本の指が柔らかくつまんだピックが、弦をかきむしった。ぼくは音の奔流の中に突き落とされた。叩きつけるような不協和音から岩だらけの滝を流れ落ちるめまぐるしい下降音。そして谷底から立ち上げる壮大で不気味なアルペッジョのアーチ、その上で足を踏みならして跳舞する切り詰められた旋律。
これは――ショパンの練習曲第十二番ハ短調。
ぼくの頭の中を吹き荒れた嵐は、唐突な終始和音でざっくりと断ち切られる。
呆然とするぼくの頭から、真冬はヘッドフォンをむしり取った。現実の音がおそるおそるぼくの耳に流れ込んでくる。自分の心音や、息づかいや、遠くの車道の排気音、ランニング中の野球部のかけ声、どれもなんだか白々しい。
真冬が斜めにぼくを見つめてきた。弾くというのはこういうことだ、という無言の力。
「……ギターくらい弾ける、なんてまだ言えるの?」
彼女のため息みたいな声。
バカにすんな、と言おうとしたけれどうまく言葉にならなかった。
「出てって。ここは練習する場所だから」
「楽器弾けるのがそんなに偉いのかよ」とぼくはぼやく。「じゃあなにか、ぼくもギター持ってくればここ使っていいってこと?」
「下手なくせに真似事だけしないで。邪魔」
ふらふらになったぼくを、真冬は部屋の外に押し出した。
閉じたドアの隙間から、やがて聞こえてくる曲は、ショパンのピアノソナタ第二番変ロ短調。葬送行進曲だ。いやみか? いや、外に音が漏れているのは気づいていないんだっけ。
くそ。
ドアに両手をついてうつむき、しばらく真冬のギターを身体に染み込ませる。それはすでに耐え難い苦痛になっていた。でも、その場を離れられなかった。
なんでギターなんだよ、と思う。
おとなしくピアノ弾いてろよ。そうすればぼくは、若いのに巧いなあ、なんて無邪気に思いながら聴いていられたのに。どうしてこっちの世界に踏み込んでくるんだ。だいたいおまえの弾いてるのは全部ピアノ曲じゃないか。なんの嫌がらせなんだよ。
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桧川直巳×蛯沢真冬
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「さよならピアノソナタ」
「5 トッカータ、南京錠、革命」(P.68~70)
(杉井光著、アスキー・メディアワークス電撃文庫刊)
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転校生は音楽界から突然消えた天才ピアニストで、なぜかエレキギターを弾きはじめ……というのが物語のさわり。まふまふのツン期の頃です。
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